竹林は、コンビニであり、エンタテイメントである。
去年11月、竹を100本ほど伐りました。
土壁の下地「竹小舞(たけこまい)」に使うためだったのですが、竹林が荒れていることも含めて、竹って面白いんじゃないか!?と思えてきました。そんな竹の話をさせていただければと思います。
伐らせていただいたのは、松本(梓川・四賀地区)と安曇野の竹林。
竹が水分を吸い上げていない11月が切り旬です。
竹は、伐り方を教われば、素人や子どもでもなんとか切れます(※力が掛かっていることもあるので油断は禁物)。うちの子どもも連れて行きましたが、汗だくになりながら何本も切ってくれました。
竹を実際切ってみてまず感じたのは、ギリギリ自分で出してこれる「絶妙の重さ」。一本切るのにさほど時間はかかりませんし、切ったものは枝が絡んでいても引っ張ればたいてい出してこれます。「手に負える」と思えるのが、すごくいいなと。木ではこうはいきません。切るのも技術がいりますし、搬出も人力ではほぼ不可能。それと比べて竹は、自分でなんとか出してこれる。身近な里山に必ず竹が植えてある理由が分かる気がしました。
しかし、実際に見た竹林は、やはりどこも荒れていました。
多少タケノコを取ってもらっているところもあるようでしたが、なにせ、竹のパワーはすごい!生命力が強く、枯れてもそうそう腐らないし、しなるし、別の惑星の生き物のよう…。竹は成長が早い分、荒れるのも早い。荒れてしまえば太刀打ちできなくなってしまいます。
竹の拡大を止めるには?と思って調べてみたところ、日本の竹研究第一人者渡邊政俊氏のちょっとレトロなHPに遭遇。タケノコの蹴っ飛ばし法がよいとのこと。でも一度荒れちゃったところはどうすればいいんだろう…?蹴っ飛ばしに入れないほど荒れている…と考えると、やっぱり使っていくしかないのだろうと思います。
土壁の下地はもちろん、ざるなどの日常の生活道具として、竹が利用されることがなくなり、日本中の竹林が荒れていて問題になっています。それは、燃料としての木を取りに行くことがなくなった山が荒れているのと同じ状況で、竹林はまさに日本の山の縮図と言えるのかもしれません。
昔の人は、「竹って絶対便利だよね!」と言って植えたんだろうと思います。だって、竹ざおとか、コップとか、切っただけで使えるのですから。
そう、昔は、竹林は道具がないときにちょっと取りに行く、コンビニのような場所だったのではないかと思うのです。24時間開いてるし、近くにあるし。ちょっと無いもの切ってくるわ、というコンビニエンスさ。もちろん実際は、切り旬があるから年がら年中出してこられるわけではないけれど、暮らしに必要なものが裏山にあって、自分で作れる、というのは、何とも地に足がついた感覚があります。
竹ざおなんて切ってくるだけです。ステンレスとか、プラスチックとか、全然使わなくていい。数年使ってくたびれてきたら燃やすだけ。カーボンフットプリントなんて言葉が出てくる以前の「始末がいい」という言葉がぴったりくる、無駄のない生きざまです。
結局は、木も竹も、使っていくしかないということなのでしょう。そして、使ってもらえるようになるには、みなさんに意識を向けてもらえるようにしていく、ということに尽きるのかもしれません。
といっても、義務感ではありません。
実際伐ってみて思ったことは、
竹伐りは、楽しい!
竹伐りは、くせになる!
ということ。
先に述べたような自分で出してこれる「手に負える」感、汗をかきながら体を動かす実体験、そして自分で何かが作れる。今の暮らしに欠けているものばかり。実は竹仕事って、エンタテイメントになりうるのではないかと思いました。
我が家は、帰って箸などつくってみました(菜箸レベル)。30分くらい無心で削っていられる瞑想感…。
という訳で、竹を使う方法をアレコレ夢想しています。土壁の家はもちろん、ビニルハウスの骨組みに使うなど、いろいろな取り組みもあるようです。図書館で愛読している月刊誌「現代農業」(おもしろいですよね)にも、特集がありました。
竹を再び身近な素材にすることができないだろうか。
自分で竹林に入って出してくる…というのは、Landschaftが目指したいテゴタエのあるくらしと、相通ずる部分があるように思います。
ぜひ次の11月には竹を切りに行きましょう。
竹林所有の方のご連絡もお待ちしております(笑)。
と、すっかり竹に熱くなってしまいましたが、
土壁の家としましては、今度はこの竹を割って、節を取ります。
またご報告しますのでお楽しみに!